先週の田畑百貨店火災について。
これはなんとも胡散臭い、というよりきな臭い火災である。なんといっても、社長一人だけが死んでいるのだし、この1970年代の千葉銀座商店街というのは、千葉駅移設に伴う通行量の減少から、官民様々な団体が関わりつつ商店街を盛り上げる解決策を見出そうと迷走していた時期だからである。アヤシイ…。当時の新聞記事を見たり資料を集めたけれど、謎に包まれたままお蔵入りしてしまっているし、政治が働いたのでは…という想像する余地をも残している、というのはなんとも魅惑的な開かれた(?)事件である。
栄町の入り口に立つと、これより先は夜の世界だ、と思う。というよりも、電柱のような真っ白いライトが短い間隔で歩道にズラリと並び、それはまるで、ホームレスを駆逐するために夜通しLEDライトを煌々と灯す公園のような明るさで「異世界」の入口であることを示している。まるで客席から舞台を見ているようだ。確かに、新宿の歌舞伎町にも頭上に看板があるし、警鐘を促す記号は歓楽街の入口には必ずと言っていいほどある。でも栄町の場合、歌舞伎町のような明るいネオンはその先に灯っていないから、「この先に進む者は悪魔と契りを交わした」と言われんばかりだ。こういうはっきりとした棲み分けは好きじゃないけれど、異なる論理が存在することは良いことだ。人間の暗部を、街が包含しているということだから。それに、舞台作品を見ることは、「悪魔と契りを交わす」ようなところがなくもない。
街には街の論理があって、僕らはそれに従う。従いつつ反抗し、それが少し論理を広げ、回収され、その積み重ねが文化になる。大きく見れば、この千葉駅を中心にした区画も、全体としてはバランスが取れている。もっとも、バランスという言葉自体は、価値を表す指標ではないから、良くバランスが取れてる場合と、悪くバランスが取れてる場合があるけれど。
千葉の栄町にせよ、新宿の歌舞伎町にせよ、夜の世界には夜の世界の論理があって、昼に働く者とは別の論理でものを見ている。死、性、霊といった部分、言葉とは別の論理で彼/彼女らはーあるいは街はー生きているんじゃないかと思う。その世界を自由に行き来できたら、とても素敵だ。
死、性、霊。古来、夜の論理を司ってきたものたち。そのままのナマモノでは、強すぎて危険だから、仮象を纏って昼の世界に流し込まれてきたものたち。本来は知覚可能でありながらも、塞いでおかないと生きていけないチャンネル。
なぜ世界には昼と夜があるのか。なぜ人間には(動物には)男と女があるのか。なぜ2つでなければならないのか。
言葉とは別の思考を志向している。
言葉を使いながら、言葉から自由になれる瞬間とか、身体を使いながら、身体から自由になれる瞬間とか。型から自由になれる瞬間とか。
昼の世界に生きながら、夜を見渡せる人になりたいなあ、とぼんやり考えた。