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2F/当番ノート

傷を測る

当番ノート 第52期

子どもの頃、身の回りに、よく怪我をする人が数人いた。何針縫ったとか、どこを骨折したとか、そんなことはその人たちの日常だった。私はそれが自分の怪我でないことに心底安堵しながら、その話に驚いてみせていたものだ。それが、きっとその人たちの望む反応だと知っていたから。そして、内心ではその人たちを見下していた。怪我をしないように安全に過ごせばいいのに、と。

「え、あのホチキスみたいにパチンパチンってやられるの?」

「怖い。私だったら絶対無理」

と、まあ、こんな具合。私の感想はすべて、「私は無理」だった。でも、人が怪我をした話を聞いても、痛ましくもならないし、共感で気持ち悪くなってしまうこともない。だって、私の怪我じゃないから。私の怪我ではないから、痛くない。当たり前と言えばそうだけれど、いつでもその怪我は他人事だった。

私は、自分の怪我にはすごく敏感で、指を軽く切っただけでも、痛ましくて、おぞましくて、いてもたってもいられなくなる。自分事だからだ。自分の痛みにはとても敏感だ。骨折はしたことないけど、きっとそうなったら大騒ぎするんだろう。想像しただけで、怖い。とんでもない痛みと向き合うことなんて、私にはできない。ましてや、出産なんて、絶対に無理だ。想像を絶する痛みに耐えてまで、何かをしようだなんて、思わない。

私は、人の痛みと共感しない強みをもって生きてきた。そうやって生きてきたことに後悔はない。人の痛みに共感してしまう私だったら、壊れるのもきっと早かっただろうから。この鈍さは、私が壊れるのを数年遅らせてくれたと思う。

物理的には大怪我と呼べるものなどしたことがないが、数年前、私は、壊れた。わかりやすく言えば、うつになったのである。診断名が次々に変わり、私はその度に病名をスマホで検索した。そして、ネット上の経験談のブログを読みながら、「私はこの人よりまし」と心を落ち着かせていた。人の傷を見て、自分の方がましだと安堵していたのだ。人の傷を見てはその深さや長さを測り、安心していたなんて、最低だ。そのひどさに気づいたのはつい最近だった。

傷を測ることを続けて、私は、無意識に人を踏みつけてきたのだろう。そして、その比較は、私自身も傷つけてきた。「この人よりましだから、自分はまだつらくない」、「自分はまだ深刻じゃない」と。その認識は、確実に治りを遅らせている。そんなことにも、気づけなかった。

自分の病気は大したことないと思いたくて、そのために他人の傷を利用して、自分の傷をこじらせて。私は何一つ、治るために進んでいなかった。でもこれは、全然おかしなことでもなかった。自分が傷を測り、人と比べて悦に入っていたことに気づいた頃、他人も、そうしているのを感じられるようになった。

今、「私はこの人よりまし」って思われたな、とか、「この人の状態なんて大したことない」と見下されたな、とか。そういうことがわかるようになった。なってしまった。何て効率の悪いことをしているんだろう。ただでさえ、似た傷をもつ人間は少ないのに、ただでさえ、理解されないのに、似た者同士で見下しあって、自分自身の、相手の、進む道を邪魔している。

そのことに気づいてからこれを書いている今まで、決めて守ってきたことがある。それは、傷、特に心の傷でつながらないということだ。傷でつながると、ひきずられるからだ。別のところでつながった人が傷をもっていたからといって排除はしないけれど、傷を理由につながるのはやめようと決めた。だから私は、傷を治してもらいに病院へ行くとき、待合室で言葉を発しないことにしている。

何度でも言おう。他人の怪我は他人事だ。自分の傷と見比べて悦に入ったりするためのものではない。他人の痛みは、他人のもので、自分のそれと比較できるものではない。共感する必要も、比べる必要もない。ただ、他人の傷という事実があり、私の傷という事実がある。その二つは、独立の事象である。

雁屋優

雁屋優

文章を書いて息をしています。この梅の花を撮影したときの私は、ライターをやることを具体的に想像してはいなかった。そういうことに、惹かれる人。

Reviewed by
藤坂鹿

雁屋さんは、「人の痛みと共感しない強み」を持っていると言う。それはつまり、「痛みに共感しないことは、強さになるのだ」と雁屋さんが思っている、ということだ。

これはけっこう注意深く読むべきところで、雁屋さんは、「共感できない」人なのではなく、「安易に共感したくない」あるいは「安易に共感する必要がない」と決めて、そういう生き方をしてきた、ということではなかろうか。

人の世は魑魅魍魎である。痛くもない傷を痛がってみせたり、痛いはずの傷を隠して言わなかったり、そういう人がたくさんいる。そのそれぞれの人にそうする事情があるが、雁屋さんはもしかしたら、そういうものにいちいち付き合っていたら真っ先に自分が壊れてしまうくらい、痛みがよくわかってしまう人なのかもしれない。

であれば、たしかに「共感しない」と決めて生きることや、その生き方を後悔しないことは、雁屋さんの強さだと思う。

痛みとはふしぎなもので、勝手に人をつなげてしまう。人の痛みに自分が共鳴し、自分の痛みが人に届いてしまうことがよくある。だからこそ、安易に繋がったりしない、と腹に力を込めることは、ある意味で、人間と適切な距離感で付き合っていくのに必要なことなのだろう。

余談だが、レビュアーであるわたしは、採血一本すら膝の力が抜けてしまうほどの痛がりの怖がりだが、ピアスはたくさん開いている。「怖い!採血怖いです!」と看護師さんに訴えたら、「その耳は何よ」と笑われたことがある。

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