突然だが、数年前に買った真鍮(しんちゅう)のボールペンが臭い。おまけに色もちょっと汚い。購入したとき、店員さんは「経年変化(エイジング)」で味が出るからと言ったので、自分が老けるたびにこのボールペンも老けていくのだなあと感傷的な気持ちになって買った。それが今、ちょっと汚くてサビ臭いのを我慢しながら使っている。何年かすると色もにおいも馴染んでくるのか。そして、これを味わいというのか。というか、味わいとはどういう概念なのか。
しかしながら、結果として、あらゆるものに同じ時間が流れていることを実感するきっかけになったのだった。あと数年で、この真鍮のボールペンもまた老いてゆく。どう変わっていくのか期待している。
体の内も外も、30歳になってから変わってきた。老化によるものか、怠惰によるものかはわからない。20代の頃は、とにかく30代のことをジジイだと思い、早逝の有名人を引き合いに出しながら「The 27 Club」に入れなかった! と冗談まじりで嘆く騒々しい友人たちを軽蔑していたので、30になるのが怖いだなんて思ったことはなかったけれど、まあ、あれだ、誕生日前日だけは怖かった。
加齢がなぜ怖いか、と問われれば、それはやっぱり人それぞれであって、私の場合、強いて言うなら、甘やかされなくなる、「若いから許す」がなくなるとか、些細なことがいくつかあるけれど、それほど気にしていない。その理由は、ドラマ『帰ってきた時効警察』(2007年)の第六話「青春に時効があるか否かは熊本さん次第!」での、オダギリジョー演じる霧山修一朗のセリフにある。この印象的な言葉を、私はずっと覚えている。
「せっかく生きてきたのに、見た目で騙してもしかたないと思うんですよ」
「木も人間も同じなんですよ。若さなんてどうだっていいんです。それよりも生きて、今こうしてある時間の証明こそが、人生にとって一番大切なんじゃないですか」
私は楽しみながら、老いていきたい。これは決して、何かを諦めているからではない。記憶力も落ちてきたし、お腹も出てきて、手は赤ちゃんのような膨らみを見せ始めた。「かにぱん」っぽい。目の下のクマはだんだん濃くなり、最近は久しぶりに白髪を発見した。お酒も弱くなってきた。歩くとすぐに疲れるのでタクシーが大好きだ。けれども、これらのことが、生きてきたことの尊さなるものを、まさに身をもって教えてくれるのである。
昨年、愛読していた読売新聞夕刊のエッセイ連載「時のかくれん坊」「日をめくる音」が『老いのゆくえ』(中公新書)として書籍化された。1932年生まれの小説家・黒井千次が「老いていく自分」を描いたものだが、これがまた、面白かった。
「事実、<老い>の進行は数知れぬ失敗や事故や異変を必然的に伴うものなのであり、もしそれを<恥しい>とか<みっともない>とかいって退けてしまったら、<老い>は痩せ衰え、少しも面白いものにならず、ただ乾いた時間の進行に過ぎぬものになってしまうに違いない。」
老いは人を選ばず必ず訪れ、異変を伴って私たちの前に現れる。むかし、出版社でライフスタイル誌の編集をやっていたころ、「ビューティ」という言葉が飛び交い、どうしたら若返ることができるかという座談会のようなものが実施され、どんなコスメがいいだとか、アンチエイジングの特集があるとか、数多くの取材をしていくなかで、老いに抗おうとするたくさんの人たちに出会った。
そのころ持っていた違和感は、そうしたトピックへの否定でも肯定でもなく、わだかまりを残したままになっていたけれど、最近、その正体が(薄)ぼんやりと見えてきた気がする。
※老いることについて考えるにあたり、朝日新聞の連載「エイジングニッポン」も示唆的だった。この連載も好きだった。
真鍮のボールペンへの、経年変化への期待。先の読めなさ。それは「一生使えます、経年変化を楽しんでください」と言われて買ったものの、変化を楽しむ前に買い換えてしまったバッグ、服、靴、財布……なんでもいいけど、なんでもそうだ。
勝手に老けて、勝手に魅力的になっていくものたち。こんなにも美しいことってあるだろうか。それは、私たち人間も同じで、定期的に、老いによって更新されていく私やあなたは“見た目で騙している”誰よりも美しいはずだ。さて、次回どうなるかわからないが、アンチ・アンチエイジング論みたいなものを書こうと、今の私は決意した(「昔」の『週刊少年ジャンプ』本誌連載漫画の最後にあった次回予告のノリ)。