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2F/当番ノート

ユヌ・ランコント

当番ノート 第53期

昨年の話。つい、新規開拓がしたくなったため、近所の居酒屋をふらふら歩きながらお店を探していた。時間も遅かったので、たまたま開いていた居酒屋に入った。3階建ての2階にあって、その上には怪しげなスナックがある。細い螺旋階段をのぼると、お店に着いた。

「こんばんは〜まだやっていますか?」

暖簾をくぐりながらそう言うと、あれ? 返事がない。閉店の片付けをしているのだな、諦めて外に出ようとしたとき、奥の部屋から「やってるよ」という声が微かに聞こえた。私は、誰もいないカウンター席にひとり座った。少し経って、店主のおばあちゃんがゆっくりと、出てきた。

このお店が3軒目で、少し酔っぱらっていたため、あまり記憶はないが、サイズ感といい、古びた家具といい、そういった雰囲気が実家の台所を想起させた。手垢まみれの「アットホーム」なる言葉をここで使うのは野暮だが、「家」のようだった。

しばらく雑談をしたあと、おばあちゃんはこれまたゆっくりと話を始めた。40年以上も続いているお店だということ。かつては結婚していたけど今は独り身だということ。自分の子どもが、かわいい孫を連れて遊びに来てくれるのが何よりうれしいということ。まだ結婚していたころ、夫は絵に描いたようなダメ人間で、6000万円の借金を作ったこと。おまけに浮気の常習犯だったこと。そして、やっと離婚したものの、その夫が作った借金をすべて肩代わりさせられたこと。完済したこと。いろいろな話を聞いた。

長くは続かなかった結婚生活を、今となっては良い思い出というおばあちゃんのお店には、かつて結婚していた相手もたまに顔を出すらしく、「毎回思うんだけど、あんなやつ、二度と来てほしくない(笑)」と純粋無垢な笑顔で言うものだから、こちらも笑ってしまって、二人でちまちまと朝までお酒を飲んで、話を聞いていた。営業時間がどこにも書かれていなくて、結局わからないまま、最近もたまに通っている。


数年前、新宿・歌舞伎町で働く知り合いができた。流れはあまり覚えていないが、「飲みませんか」と誘われたので「いいですよ」と答え、安い居酒屋で何度かレモンサワーを飲んだ。彼には「人の話を聞く仕事をしています」とだけ伝えていたので、何をやっている人なのか全然わかってはいなかったと思うが、「いろいろ話を聞いてくださいよ」と自分のお店で働く従業員を何人か紹介してくれて、新宿のファミレスで安いお酒を飲みながら、夜遅くまで話をする、という日々が始まった。

大学の学費を稼ぐために働いているんです。父親が入院しているので、北海道から出稼ぎに来ました。ホストにお金を使いすぎてしまうんですけど……。「自分にとって、この歌舞伎町はハレの場なんです。ここでしか生きられない」、そう語る人もいた。さまざまな話を聞いたがほとんどは忘れてしまって、ちゃんと覚えているのは、誰もが笑顔で語っていたことだけだ。


飲めばほとんど忘れてしまうものの、印象に残ることは多々ある。私はさまざまな場で、たくさんの人と飲んできた。お酒が進んでいくと、多くの人は当たり前のように苦笑いをしながら愚痴をこぼす(私もそうだ)。うつむきながらしゃべる人や、会社の悪口を言う人もいる。そうした会話のなかには、純粋な笑顔がない。哲学者のアンリ・ベルクソンは「笑いに伴う無感動」について、こう指摘している。

「笑いに伴う無感動というものを指摘したい。滑稽は、極めて平静な、極めて取り乱さない精神の表面に落ちてくるという条件においてでなければ、その揺り動かす効果を生み出しえないもののようである。われ関せずがその本来の環境である。」

「常に物に感じ易く、生の合唱に調子が合っており、あらゆる事件が感情的な共鳴を伴うようになっている心の人びとは、笑いを知ることもなければ、理解することもできないであろう。」

「(笑う)対象に共感を見つけた時点で、笑えなくなる」と言い換えられそうだ。先ほど触れた人たちは、笑うべき対象を客観視することができてない。だからつまらなさそうな顔をしている。

しかし前述した、ファミレスで出会った人たちはどうだろう。おそらく、ベルクソンの「無感動」の外側にいながら、純粋に笑っていたんだと思っている。

偶然の出会いがなければ、こうして今になって思い出すこともなかっただろう。偶発性の出来事は、予想の斜め上から情報を与え続けてくれる。


検索サイトのアルゴリズムがフィルターバブルという機能を有して以来、私たちは無数の情報を失い続けてきた、という表現もできると思うのだけれど、それはインターネットのなかだけで起きているわけではない。

こうした「リアル」の世界でも絶え間なく機能し続けている。なんだったか、名称を忘れてしまったが、あることを意識していると自然にその文字列が目に入るようになり、あたかもその文字列があふれているようにみえる錯覚についても、ある種のフィルターバブルと言える可能性がある。

つまるところアルゴリズム云々といった意味付けをせずとも、多くの人は見たい情報しか見ない。対人間についても同様で、その結果、無数のインヴィジブルな“ひとびと”を生み出しているのではなかろうか。再現性のない現象、たとえば車窓から見える光景やすれ違う「二度と話すことも会うこともない」人たちであるとか、それ自体あまりに残酷で救いがない。だからこそ、偶発性に満ちた世界に、救いはあるのかもしれない。

岡本尚之

岡本尚之

1989年、広島県福山市生まれ。編集者。趣味がない。

Reviewed by
多村 ちょび

自粛期間にかまけて部屋に篭って歴代の「IPPONグランプリ」を見漁っていたら、松本人志さんが「笑いは緊張と緩和だからなぁ」と仰っていた。
ラーメンズの小林賢太郎さんは、インタビューで「面白いって、笑えるってだけじゃないですよね」と話していた。

特にお笑いに詳しいわけではないけれど、どちらにも「意外性」というキーワードが含まれている気がした。自分の予想と違ったギャップに対するおかしみ。対象に共感した場合には笑いは生まれず、客観性、つまりは自分とは違うと感じている時に、笑いは生まれるのかもしれない。

昔、「ご長寿早押しクイズ」という番組をやっていた。お年寄りがクイズに答えて珍回答を楽しむものだった。私はいつも爆笑していたけれど、少し歳が上の知り合いは、なんだか忍びない気持ちになったそうだ。笑うも笑わないも、どんな態度も間違いはない。私にとっては意外性ばかりで、彼にとっては共感しうる部分があったということだと思う。すべての人が異なる感性を持っている以上、笑いはどこにでも起こるし、必ずではない。

「無感動」の外側にいる純粋に笑いって、どんな笑いなんだろう。思いを巡らせている。

ちなみに、私は普段まったく哲学書を読まないので、このレビューを通じて、さらにはアパートメントを知ったことで、こんなリズミカルな名前の哲学者がいることを知った。こんな予定不調和な出会いを、とても楽しんでいる。

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