この1か月、食べるものは全部自分で作っていた。やれば結構できるものだ。料理は苦ではないけれどあまり経験がない。でも、自分にはアレルギーとアトピーの問題があったから、母が死んだらいつかはこういう日が来ることも小さい頃から頭にあった。いつかは全部自分でやらないといけない日がくる。大学に入って一人暮らしを始めて一年で切り上げた時も、その後再び一人暮らしを始めてまた一年で切り上げた時も、問題は食事とアトピーだった。
ついにそういう日が来たのだ。だから腹を括って全部自分で作っている。母が家で作っていた料理と、自分が家で食べていたものを思い出しながら、母が家で作っていた料理と自分が家で食べていたものを作っている。そのお陰か、2キロ痩せて身体の炎症の大部分は治まり、ステロイドがないと生活できない状態からはかなり前進した。
自分で作った料理はうまい。自分で作った料理はうまいから毎日なにか作ってしまう。仕事の性質上、在宅勤務が難しいので毎日出勤しているけれど、12時ぴったりになるとサーモスのスープジャーに入れてきたあつあつの弁当を食べ始める。よく筑前煮や肉じゃがを詰めて持っていくが、毎日うまいので飽きることがない。今日もなぜこんなにうまいのか考え込んでしまった。もしかして、人間は自分で調理したものをうまいと思うように進化したんじゃないか。砂糖も油も使っていない、鰹出汁と塩味の自分の料理が美味しいなんて、そんなことあるはずがない、と心のどこかで思っている。
毎日なにかを作ってしまう。これはもしかしたら料理にハマり始めた初心者あるあるかもしれない。でも、毎日作るためには毎日食べないといけない。食べないことには冷蔵庫も空かない。食べないまま置いておくと腐らせてしまう。そんな当たり前な、と思うかもしれないが、作ることをあまりしてこなかったのだから、作ったものは食べないといけないことだって経験がない。この1か月で学んだことはこの「作るためには食べないといけない」だった。そうか、作って満足するだけではダメなのか。
自分の料理には制約が伴う。webサイトのレシピを見てその通りに作れることはとても少ない。だから記載されている調味料や味付けを他のものに置き換えたり削ったりする。昔から大豆を控えている時期が長かった。大豆を控えるとはつまり醤油を使わないことだ。家で出てくる料理は更にお砂糖と油を控えたもので、米がダメな時には米由来の調味料(料理酒など)も外していた。醤油の味付けは塩に変えればいいし、小麦粉は出来る限り片栗粉に置き換える。油を使わないから調理の仕方はグリルを除けば煮る、蒸す、茹でる、の3つだ。
自分で料理したものしか口にしない(加工食品を口にしない)というのは、やってみるとなかなか楽しいものだ。なにせ作らないと食べるものがないのだから、作らざるを得ない。お店で売られている惣菜、甘辛い味付けとの決別。今の時代、自分で作らなくてもどこでも美味しい惣菜が売っていて、包丁なんか握らずとも生きていけるけど、こうやって過ごしていると自分の生活に(自分の場合は身体に)ちゃんと責任を持てている感じがする。生きることを自分の側に引きつけて居られている感じがする。生活の中に具体的な行為が増える。それがとても気持ちいい。
生活の具体性。
自分で料理をするということは、生活の中に具体的な行為が増えるということだ。包丁を入れると野菜が2つに切れる。最高じゃないか。今の僕たちの生活は、とにかく抽象度の高い行為で溢れていて、スマートフォンをタップすればアプリケーションが起動するけれど、僕たちの多くは(もちろん僕もだ)その裏で行われている計算の仔細を知らない。電子マネーの支払いもそうだ。あまりに行為の抽象度が高まると身体性が伴わなくなっていく。生活がぼやけてしまう。シームレスになるとは、区切りがなくなるということだ。家事や掃除が精神衛生的に良いとされるのは、それが有限な具体的行為の集積で、明確に区切りが訪れるからだろう。人間の身体が使える範囲は限られていて、それ以上に行為することはできない(包丁で野菜を一度に3つも4つも切ることはできない)。それが生活に輪郭を与えてくれている。