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お直しカフェ (22) 誰かの日課と庭お直し

お直しカフェ

近所で馴染みの喫茶店のシャッターがずっと開かないでいる。心配だ。はじめは4月に「緊急事態宣言につき休みます」の貼り紙がしてあったのだが、宣言の延長と共に「休業延長します」の紙に代わり、約束の日が過ぎても紙がなくなっただけで店は閉じている。

今日は、名物の「イタリアン焼きそば」とアイスコーヒーでお昼ご飯にしようと思って出かけてきたが、やっぱりまだやってなくて、斜め向かいのマクドナルドで「てりやきマックバーガーセット」にした。物足りない。ホールのおじいちゃんの凛とした振舞いに背筋を伸ばすこともなければ、出来立ての焼きそばの湯気もちょっとクセのある絵柄のお皿やグラス、かつて若者の溜まり場だった時代の名残と思しきan•anの最新号もないし、常連の人たちの落ち着き払った過ごし方を観察することもできない。彼らは代わりにどこへ出かけているのだろうか。出かけていないのだろうか。

毎日店を開けることは、人生の大半とも呼べる長い間、高齢のオーナー家族の生活の中心だっただろう。休業が長引いてそのリズムが乱れれば、調子や体力、勘を取り戻すのに苦労しないか、貼り紙を見る度心配していた。どんなきっかけがあれば、あのお店のシャッターは再び開くのだろうか。

さて、今回の本題の庭である。今年の春から夏は、たびたび義実家にこもって庭づくりに励んだ。去年の春に植えた甘柿の苗が急にぐんと大きくなって、いよいよ木という感じが出てきた。木を苗から育てるのが初めてで、その成長のスピードと力強さに驚いている。桃栗三年柿八年。実の恩恵に預かるにはまだまだ時間がかかるが、しっかりとした木に育てて、家族で大切にしたい。(上の写真が2020年の春、下が2021年の初夏。子どもと同じで成長が早い…。)

庭には去年亡くなったじいちゃんが植えたレモン、ブルーベリー、きんかん、甘夏、梅と色んな木がある。数年手入れをされていなかったのか、どの木も今は少しごちゃごちゃしていて、枝も葉も伸び放題。これまでは義実家に出入りしだしてまもなかったのと、庭はじいちゃんのものだという認識で、遠目にいいところだな〜と眺め見るだけだったけど、少しずつ家族の勝手がわかってきて、気になるところが目につき始めた。まずは、増えすぎた枝、伸びすぎた枝を剪定することから始めようと手を動かす。

これはもう数年、実をつけるのをやめてしまった梅の木と格闘している様子。剪定もまたお直しだな、と少しずつハサミを入れていく度に思う。ひと針ひと針運ぶお繕いに動作もよく似ている。前者はもう少し体力や高所での作業が必要だし、やりすぎると筋肉痛になるが。

遠くから見て、近くから見て、不要と思う枝を切り落としていく。長さを整える。「木を見て森を見ず」という言葉が何度も頭に浮かぶ。実際は「枝を見て木を見ず」なんだけど、この先を見通すことが今はまだほとんどできてないように思う。何年も何年も季節をくるくる回して経験を積みたい。目を鍛えて、勘を鍛えたい。

これは剪定した、レモンの花。剪定は少しずつ樹木を解いていくようなところが面白い。絡まった糸を解くような。それまで遠くからぼんやりとしか眺めていなかった木に対して、枝切り鋏を片手にぐっと近づいてじっと見る。そうすると、あれこの枝はよく見ると下を向いているなとか、曲がりくねって生えているから取り除いておくかとか、勢い任せの徒長枝ばかり生えちゃってるなとか。お直しをするとき、普段は足元にある靴下を手に持ってじっと顔を近づけてどこをどう直そうか考える。あの一連の流れにどこか似ているなと感じている。どちらも好きな作業だ。

ところで、京都に住んでいると、びっくりするぐらい町家の解体現場に出くわす。昔ながらの街、西陣に住んでいるから尚のことかもしれないが、毎月、下手すれば毎週、どこかの家がぐるりと足場で囲われたら最後、ちょっとヤンチャそうな職人さん達が数人でやって来て、ショベルカーでガシャンガシャン。一週間も経たないうちにその建物は消えてなくなる。登記簿にも記録が残っていないような築100年を優に超える物件も少なくないだろう。それらは、今のように巨大な重機や電動工具のなかった時代、今よりもっとたくさんいただろう大工の手によってコツコツと建てらた筈だ。それが、大きな音と共に力任せに壊される。だいたい前面から壊すので、作業の途中には、半壊した建物が露わになる。それぞれ素材としての力が残っているはずの立派な材木もガラスも土壁も、見境なく壊されて、全部ただのゴミだ。

はたらくクルマが大好きな息子は大興奮だが、その光景を日常的に見せられるのが、私には結構辛い。大事な庭木を剪定するように、家も少しずつ解くような壊し方がないものか。そういうことを否が応でも考えてしまう。あわよくば、木のように、余分を取り払い、もう一度元気な枝葉を伸ばし、また実をつける。そういう解体、減築、改修、なんて言ったらいいんだろう、そういうことを頭の片隅で模索している。

庭の中で、長らく不要な資材置き場みたいになっていたところも整理して、あずま屋のようなブドウ棚のようなものを作ることにした。庭に出る小道の突き当たり、ばあちゃんが一日中何度も出入りする勝手口や洗濯物の干し場からも一番に目につくところだ。上の写真はこれからの計画を説明している様子。ばあちゃんは、大体のことをいいよと言ってやらせてくれるが、大事にしているホソバ(槙)やその付近については慎重で、また日課の草取りのための通路の邪魔になってもいけない。ちなみに、静岡西部、遠州と呼ばれるこの辺りの昔ながらの家は大体ホソバで囲まれていて、外からも中からも見栄えよく、大事に管理されている(ホソバだけは造園屋さんに剪定をお願いしており私はいじれない)。ともかく、これから出来るブドウ棚が、ばあちゃんの草取り中の休憩場所にもちょっといい木陰になることを願っている。何年先のことになるやら。

話はまた京都に戻り、先日、家の近くを自転車で走っていたら、交差点の反対側に見知った顔のおじいちゃんが。そう、冒頭に登場した喫茶店のマスターだった。勇気を出して「お店あけはらへんのですか?」(私のえせ京都弁はこんなもの・・・)と声をかけると、「ええ、モーニングは開けてます」とのクールなお返事が。なんと!よかった。昼すぎにしか訪れていなかった私のとんだ勘違いだった。毎日毎日店を開ける。毎日毎日畑に出て庭に出て草取りをする。ばあちゃんは「私みたいに体が慣れてないから長時間庭仕事しちゃだめ、倒れちゃうよ」と声をかけてくれる。彼ら彼女らには、まだまだ学ぶことばかりだ。

はしもと さゆり

はしもと さゆり

お直しデザイナー。企画と広報、ときどきカフェ店員。落ちているものとお直し、マッサージとマイケルジャクソンが好き。

Reviewed by
Maysa Tomikawa

これまで木を剪定することについて、深く考えたことなんてなかった。だけど、不要と思う枝を切り落とし、今後成長していくだろう残された枝と、木の未来を想像しつつやる作業なのだと思って、はっとなった。

植物を育てることも、人を育てることも、そして関係性を育てることも、先のことに想いを馳せつつ、今必要なことを行い、不要を取り去っていくことだ。育っていく方向に向かって、導いていくことだ。剪定ってそういうことなのかなと思うと、それこそ生の営みそのもののようで。

一本一本、育っていくために切られる枝と、がしがしと破壊されていく町屋の梁や柱の一本一本が、生と死のように正反対で、喜びと悲しみとどっちの気持ちも混ざり合って、少し切なかった。


糸に触れる私たちにとって、繋がっていくこと、結んでいくことには意味があるから、切ってもそのまま育っていくものを大事にしたいし、今あるものも、この先に繋げていきたくて。そんなことをはしもとさんは考えているのかなと思うと、わたしもよ、って陰ながらグッジョブって声をかけたくなった。

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